丸岡城と一筆啓上

  私の出身の 福井県坂井市 丸岡町を存知ですか?

    あの『日本一短い母への手紙』の故郷です。
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その1 - 地理
 丸岡町は、福井県の北端に位置し、福井市の北約10kmの位置する人口約3万人の旧城下町です。
 丸岡町は、坂井市のなかにあって、北はあわら市金津町、西は坂井町・春江町、南は吉田郡松岡町・永平寺町と勝山市、北東は石川県に各々接している。昭和30年3月、旧丸岡町と長畝(のうね)・竹田・椋(たかぼこ)・鳴鹿(なるか)・磯部の5ヶ村が合併して誕生した町です。
 町域の東部には400〜1,000m級の山々が広く分布するが、西部には福井平野の平坦地が開けている。北部を竹田川が西へ曲流し、南境沿いを九頭竜川(くずりゅうがわ)が西流する。町の西寄りに、主邑の丸岡市街が形成されている。
 現在は、福井市のベッドタウンとして、県内でも人口増加の高い有数の町です。

その2 - 交通
 丸岡の城下町も、北陸街道(旧国道8号線)の宿駅を兼ねて繁栄したが、近代に入って旧国鉄北陸本線が開通するとき、その敷設に反対したため、国鉄は隣の坂井町を通ることになり、丸岡駅も坂井町に設置されて一時町勢の停滞をみた。しかし現在では、福井・金津・永平寺などの各方面からバスが通じ、本丸岡バスターミナルは県北部におけるバス交通の一中心地になっている。町の西寄りを国道8号線が縦断するほか、北陸自動車道丸岡インターチェンジが町の東寄りにあり、交通の便は非常によい。

その3 - 天候
 福井県は、北陸=雪が多いと思われがちですがそうでもないですよ。たまに、一晩で1mも降るときがありますが、それは数年に一度です。(たぶん)

その4 - 産業
 現在は、繊維工業がさかんで、人絹、特に細幅織物の産地として知られ、全国生産高の約8割を占めている。福井の近郊都市的性格が強いが、農業もおこなわれ、米・野菜類が産出される。
 私の父や親族一同も、大正時代から機織り(はたおり、専門用語で広幅や、細幅のネーミング)を生業としていました。そのため、私も織機(はたご)のガチャコン、ガチャコンの音を子守り歌代わりに育ちました。

その5 - 歴史
 (古代)
 昔を振り返れば由緒ある歴史深い町であることは知る人ぞ知るところです。
 丸岡の地は、継体(けいたい)天皇発祥の地で、丸岡城のある丘は、継体天皇の第二皇子椀子(まるこ)王を葬った所と言い伝えられ、古くは、「麿留古平加(まるこのおか)」と呼ばれていた。それが「丸子の岡」となり、やがて「丸岡」という地名を生んだとされています。

 (中世)
 丸岡は、天正4年(1576)、柴田勝家の甥の勝豊が丸岡城を築き、城下町を整備したのが都市的起源とされている。丸岡城は、1576年、柴田勝豊によって築城された日本最古を誇る天守閣で、国の重要文化財です。(左下写真参照)
 外観は二層、内部は三層の望楼型天守閣で石垣は”野づら積み”という古い方式で、すき間が多く粗雑な印象ながら排水がよく大雨に崩れる心配がないといわれています。
 (丸岡城については、ここをクリック。)

 (近世)
 柴田勝豊ののち城主は、安井家清・青山忠元を経て慶長18年(1613)、本多成重に代わったが、本多氏は4代で失脚。元禄8年(1695)、越後糸魚川から有馬清純が5万石で入部し、幕末に至った。
 (丸岡城の歴代城主については、ここをクリック。)
 この丸岡城の石垣の側に「一筆啓上 火の用心  お仙泣かすな 馬肥やせ」と刻まれた一つの石碑が立っています。(右下写真参照)
 徳川家康の忠臣 本多重次が陣中から妻に送った手紙で、お仙とは後の第6代丸岡城主本多成重のことです。
 (「一筆啓上」については、ここをクリック。)
丸岡城 一筆啓上の石碑
丸岡城 一筆啓上の石碑

その6 - 見どころ
 見どころとしては、丸岡城天守本光院称念寺、県指定天然記念物の女形谷(おながたに)のサクラなどがあり、北横地の布久漏神社に伝承される"表児の米"(ひょうごのこめ)行事は、県の無形民俗資料に指定されている。
*年中行事4月1〜20日丸岡城桜まつり(霞ヶ城公園)
4月15〜17日国神神社春季祭礼(国神神社)
8月16〜17日舟寄(ふなよせ)踊り(舟寄地区)   
9月14日表児の米(北横地 布久漏神社)
9月14・15日日向神楽(長畝 八幡神社)
10月15〜17日 国神神社秋季祭礼(国神神社)
10月16日古城まつり(本町・谷町通り)
*名産・おみやげ ・霞せんべい
・霞けんけら
・霞城の月
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 称念寺
 丸岡市街の西約2kmにある時宗の寺で、山号は長林山。養老5年(721)泰澄大師が、天正天皇の勅願によって開いたという古刹。のち衰退したが、正応2年(1289)遊行2世他阿真教上人が入山して中興したといわれる。
 延元3年(1338)新田義貞が燈明寺畷(なわて)(福井市)に戦死したとき、北朝方の将斯波高経がその遺骸を当寺に埋葬したといい、唐門の奥に木立に囲まれて義貞の廟所が現存している。墓は高さ2.6m余りの大きな五輪石塔で、天保8年(1837)、義貞の500回忌にあたり、福井藩主松平宗矩(むねかね)が義貞の古い墓石を埋めてその上に建立したものという。県指定の史跡である。
 寺宝の絹本着色他阿真教上人像は国指定の重要文化財で、鎌倉末期の作。上人直筆の「南無阿弥陀仏」の文字が施されてある。

 交通:町内長崎。本丸岡バスターミナルから下兵庫行バス7分舟寄下車、徒歩5分
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 舟寄踊り
 舟寄(ふなよせ)地区に伝承される一種の盆踊りで、毎年8月16日・17日におこなわれる。
 今から400年ほど前、越前領主朝倉義景の重臣、黒坂備中守景久が舟寄に居館を築いたとき、武士と農民の融和をはかって酒宴を開いた。その席上で踊られたのが始まりといわれる。
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 本光院
 宝照山と号する浄土宗の寺で、慶長18年(1613)に丸岡城主となった本多成重の創建と伝えられている。
 本尊は恵信の作という阿弥陀如来像で、堂宇は昭和23年の福井大震災後再建された、本堂・庫裏・山門・書院などを備える。墓所には成重の父重次以下本多家累代の墓がある。

 交通:町内霞町。本丸岡バスターミナルから徒歩15分
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 日向神楽
 県指定の無形文化財で、毎年9月14日の夜と15日の午後、長畝(のうね)八幡神社の例祭にて演じられる。元禄8年(1695)有馬清純が丸岡藩主になったときに、日向神楽の舞人数名を伴って来たのに始まるという。
 清純は日向国延岡から元禄4年に越後糸魚川へ国替えとなり、糸魚川在城3年余りで丸岡へ移ってきた。神楽は天の岩戸開きなどの神話にちなんだ24舞で構成されている。
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