古城・丸岡城(霞ヶ城)の歴史 (previous next)

本丸からの霞ヶ城天守閣
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本丸からの天守閣全景
 
 今から400年以上前、わが国の戦国時代といわれる頃、北陸地方には、武士・郷士・僧兵の間に永年騒擾(そうじょう)が続けられていた。

 天正3年(1575)織田信長は、これら北陸地方の一向一揆を平定すべく、大軍をこの地方に動員して当時丸岡の東方4キロ余の山中にあった豊原寺を攻略した。
 この時、幾多の寺坊は悉く兵火により焼失してしまった。
 信長は、この恩賞として柴田勝家に越前(現在の福井県北部の嶺北地方)を与えて守護職とし、北ノ庄(今の福井市)に築城を命じた。
 勝家は、その養子で甥に当たる伊賀守勝豊を豊原に派遣して、この地に宮城(みやしろ)を構えさせた。
 が、柴田勝豊は交通の利便性などから、翌天正4年(1576)豊原より丸岡に移り築城した。

  これが現在の丸岡城である。

 丸岡城は、その昔、戦があるたびに大蛇が現れ、一面に霞を吹いて城を隠し、敵の攻撃を免れたという伝説により、この城を一名「霞ヶ城」とも言われている。
本丸前広場からの天守
本丸前広場からの天守
 
一筆啓上の石碑
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一筆啓上の石碑
 
 天正10年(1582)の本能寺の変後、勝豊が江州長浜へ移ると、城主は安井家清・青山修理亮・忠元・今村盛次と代わり、慶長18年(1613)本多成重が4万3,000石で入城した。
 成重は、”鬼作左”の名で知られる三河三奉行の一人、本多作左衛門重次の嫡男である。

 重次が陣中から家族にあて、『一筆啓上、火の用心、おせん泣かすな、馬肥せ』と書き送った手紙の話は有名だが、
その文中の”おせん”は、幼名を仙千代といった成重のことである。

 本多氏は、4代重能の元禄8年(1695)、お家騒動に因を発して除封となり、かわって有馬清純が5万石で入部、8代、160年間伝えて、明治維新に及んだ。

 大正中期より昭和の初期にわたり濠は埋められ、現在は本丸と天守閣と僅かに石垣を残し城域は公園となっている。
 昭和9年(1934)国宝に指定されたが、昭和23年(1948)福井大震災により倒壊した。
 昭和25年重要文化財の指定を受け、昭和30年に修復再建された。

 丸岡町のシンボルであり、国の重要文化財に指定されている丸岡城天守は、福井大震災による倒壊後の昭和30年(1955)に再建されて以来、昭和48年・昭和56年と部分的な修理を行ってきましたが、長年の風雪に晒され各所に破損・腐食が進行しているため、平成15年(2003)3月〜9月11日まで、国・県の補助を受けて部分修理を行いました。

●総事業費39,300,000円(設計監理等を含む)
●木工事3階高欄部分を解体し、腐食した部分を新しい材料と取り替えて組みなおします。
その他、各所の腐食が進んでいる木部分を修理します。これらの部分には上質の桧(ひのき)が使われています。
●屋根工事割れている瓦を接着し、破損が進行しないよう処理します。修理が不可能なもののみ新しい瓦と交換します。
丸岡城天守の瓦に使われている笏谷石(しゃくだにいし)は現在石材として生産されていないため、入手が困難になりつつあります。
●その他漆喰(しっくい)塗壁や飾り金物の補修を行います。
石垣の積石は、割れているものを接着し補修します。
 ※ 丸岡町教育委員会の丸岡城天守保存修理工事内容の説明から抜粋。


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