継体天皇の伝承 (back)

 『日本書紀』に、継体天皇という不思議な存在が出てくる。

クリックで継体天皇全体像の拡大図へ(60kb)  継体天皇は、いまの福井県(越前)に住んでいた。越前の伝承では、九頭竜川、足羽川、あるいは日野川の流域平野を大いにひらいて農業生産をあげたという。その在世は五世紀から六世紀にわたっている。越前の古墳文化でいえば、旺盛なエネルギーでもって中期古墳が無数に造営されつつあった頂点(もしくはそのエネルギーの末期)にあたる。

 名は、男大迹王(おおどのおおきみ)(もしくは彦太尊)と呼ばれた。おそらく彼は、富強であったであろう。
 この勢力家はの正体については、『日本書紀』は応神天皇五世の孫であるという。実父はいまのJR湖西線ぞいの滋賀県高島郡にいたともいう。実際はどうであったかもわからず、そういう由緒は当時でもつくることができるのである。たとえかれが五世の孫であったとしても、五世代も経って、しかも父が湖西の草ぶかい高島の地にいたという程度ならば、地下の者とさほどかわらない。

クリックで継体天皇の左半身像の拡大図へ(61kb)  ときに、倭(やまと)政権は前代の血が絶えた。
 そこで、有力な豪族たちが、はるか越前(当時、越前という呼称はなかった)の地にいる人物をかつぎ、畿内にまねいて天皇になってくれことを望んだという。『日本書紀』によると、男大迹王はすでに五十七歳になっていた。手腕、勢力、思慮すべてが成熟しきった年齢といっていい。

 かれはその擁立運動に応じ、おそらく大軍をひきいて越前から出てきたが、ふしぎなことにすぐには大和盆地に入らなかった。淀川ぞいをくだってこんにちの京阪沿線の樟葉(くすは:いまは楠葉)でとどまり、そのあとその付近で三ケ所を転々しつつ、二十年経ってからやっと大和に入り、磐余(いわれ)に宮居(みやい)した。(継体天皇成立は西暦507年)おそらくこの間、大和盆地や諸方の豪族の出方を見たり、政治工作をしたりしていたに相違なく、このことを見ても、よほど慎重な性格だったと思える。
 このことは、古墳時代中期の越前の地が、他の先進、後進の地方にくらべ、農業生産や鉄器生産、あるいは灌漑土木が沸き立つほどにさかんだったのではないかということを想像させるに十分である。

 (※ 司馬遼太郎著『街道をゆく18 越前の諸道』朝日文芸文庫より)
 (※ 継体天皇の石像が、福井市の足羽山にあります。)

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