丸岡城の歴代城主 (previos next)

天守閣への入口  丸岡城を初めて築いたのは柴田勝家の甥、柴田勝豊である。

 織田信長から、越前(現在の福井県北部の嶺北地方)の守護職を命じられた柴田勝家は、天正3年、その養子で甥に当たる伊賀守勝豊を勝家の本拠北の庄城(現在の福井城)の一支城として豊原(丸岡の東5キロ)に派遣して、この地に宮城(みやしろ)を構えさせたが、翌天正4年(1576 桃山時代)豊原より丸岡に移り築城し、四万五千石で入城した

本丸への入口  天正10年に勝豊が近江長浜に移り、しばらくの間、勝家の臣、安井家清という者が城番として居た。

 ところが、天正11年勝家が賎ヶ岳の戦であえなく敗北したときから、越前の勢力図も塗りかえられた。
 丹羽長秀が北の庄城に入ったとき、その臣青山加賀守宗勝も四万六千石で丸岡に入城した。
 慶長5年(1600)宗勝の子忠元が関ヶ原の役に西軍に組したため没収され、同6年、結城秀康の越前領有にあたって、臣今村掃部盛次が二万五千石の城番として丸岡を領有した。

 しかし盛次も慶長17年(1612)の越前騒動の責任をとって失脚し、翌年に本多成重(四万三干石)が入った。重能が丸岡城を現在の縄張りに改めたりもしたが、四代のとき、お家騒動(丸岡騒動)を起こしたため没収。

 元禄8年(1695)有馬清純が越後糸魚川より移り、維新まで八代、160年続いた。

 そのように城主がめまぐるしく変わっていたのてある。
 明治3年(1870)3月藩籍奉還後、官有となりました。
 その後民有になり、その間に建物(館・門・塀・武家屋敷など)は売却され、石垣は壊れるままに放置され、明治34年(1901)町有になりました。

 ◆丸岡城の歴代城主年表
城主名和暦西暦
柴田勝豊天正 4年〜天正10年1576〜1582
安井左近家清天正10年〜天正11年1582〜1583
青山修理亮天正11年〜天正15年1583〜1587
青山忠元天正15年〜慶長 5年1587〜1600
今村盛次慶長 5年〜慶長17年1600〜1612
本多成重慶長17年〜正保 4年1612〜1647
本多重能正保 4年〜慶安 2年1647〜1649
本多重昭慶安 2年〜延宝 4年1649〜1676
本多重益延宝 4年〜天和元年1676〜1681
(重益病気のため隠居し、城主代理本多外記をおく)
本多外記天和元年〜元禄 2年1681〜1689
本多主計元禄 2年〜元禄 6年1689〜1693
(重益病気回復のため、再び城主となる)
本多重益元禄 6年〜元禄 8年1693〜1695
有馬清純元禄 8年〜元禄15年1695〜1702
有馬一準元禄15年〜享保18年1702〜1733
有馬孝純享保18年〜寛延 3年1733〜1750
有馬允純寛延 3年〜安永元年1750〜1772
有馬誉純安永元年〜天保元年1772〜1830
有馬徳純天保元年〜天保 8年1830〜1837
有馬温純天保 8年〜安政 2年1837〜1855
有馬道純安政 2年〜明治 2年1855〜1869
県有明治 4年〜明治17年1871〜1884
民有明治17年〜明治34年1884〜1901
町有明治34年〜現在1901〜現在

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