宇和島城(別名・鶴島城)

―― 珍しい五角形の縄張りの城 ――

宇和島城:天守閣と石垣
ダブルクリックで拡大図(66kB)へ 宇和島城:本丸からの天守閣
ダブルクリックで拡大図(62kB)へ  宇和島は古くは板島といい、この地に初めて築城された年代は明らかでないが、天慶4年(941)橘遠保が宇和地方の豪族となり、砦を造ったともいわれている。
 現在の城山は当時島であり、要害の地であった。
 嘉禎2年(1236)には、西園寺公経の所領となり、戦国時代天文15年(1546)高串道免城主の家藤監物の居城となって、板島丸串城といわれていた。

 その後、天正3年(1575)西園寺宣久の居城となったが、同13年(1585)には豊臣秀吉が四国討伐を行うと、伊予は小早川隆景の所領となり、松前城を本拠とした。この時板島には、持田右京が城代として置かれた。
 その後、同15年(1587)宇和郡は戸田勝隆の所領となり戸田与左衛門が城代となった。この頃の板島丸串城は、山上の砦と山麓の屋形程度にすぎなかったものと思われる。
宇和島城:天守に至る石段と二の丸石垣 宇和島城:天守入口玄関
 文禄4年(1595)藤堂高虎が宇和郡七万石に封ぜられ、その本城として慶長元年(1596)築城工事を起こし、城堀を掘り、石垣を築いて、天守閣以下大小数十の矢倉を構え、同6年(1601)ごろまでかかって、厳然たる城郭を築きあげた。
 当時の宇和島城は外郭の約半分が海に接する海城であるとともに、標高八十メートルほどの山の頂上に本丸を築いた平山城でもあった。
 現在でも宇和島市の市街地は、城を中心に五角形の形をなす。これは慶長元年(1596)に築城の名手である藤堂高虎によって構築されて以来のことである。
 慶長13年(1608)高虎が今治に転封となり富田信高が入城したが、同18年(1613)に改易となったので、約1年間幕府の直轄地となり、高虎が預かり、藤堂良勝を城代とした。

宇和島城:天守内部一階部 宇和島城:天守内部二階部  慶長19年(1614)12月、仙台藩主伊達政宗の長子秀宗が宇和郡十万石に封ぜられ、翌元和元年(1615)三月に入城の後宇和島城と改めた。
 それ以後、代々伊達氏の居城となり、二代宗利のとき寛文4年(1664)天守閣以下城郭全般の大修理を行い、同11年(1671)に至り完成した。
 この折に天守が建て替えられて、今でも遺る層塔型の新天守となった。

 天守は、独立式で三層三階本瓦葺き、白壁の総塗りごめ造りで荘重である。正面最上層の屋根に唐破風、二層に大型の千鳥破風、その下に二つの千鳥破風を並べ、最下層にこれらの総てを受けた玄関に大型の唐破風がある。これらは各層の屋根とよく調和して、美しい姿と安定感をもち、江戸時代初期の貴重な天守となっている。なお、上り立ち門(市指定)や二の丸・藤兵衛丸・長門丸・代右衛門丸などの石垣遺構もよく保存されている。
宇和島城:天守最上階からの本丸と二の丸跡 宇和島城:雷門跡と上がり立ち門への石段
 しかし特徴であった五角形の外堀は明治維新後埋められ、建物も順次取り壊されてしまった。
 さらに昭和20年(1945)の戦災で追手門(国宝)を焼失したので今はわずかに天守と上がり立ち門を残すのみとなった。

 昭和24年1月、城山の大部分と天守は伊達家より宇和島市寄付され、市の管理に属した。同35年10月天守は国の文化財保護委員会(現文化庁)の許可を得、同委員会の指導監督の下に、解体修理を行い、同37年10月をもって、新装の姿を復元した。

宇和島城:移築された桑折氏武家長屋門 宇和島城:上がり立ち門
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 初訪問時は、早朝で宿舎から歩いて行ってみたお城は外観のみでしたので、こじんまりしていた印象が残っているだけでした。

 でも再訪問時は、しっかり中も見せていただきました。さすが現存の城だけあって、中は下手な展示品もなく、木の味わいのある、当然階段は急ですが、楽しめました。

 宇和島城                                           平成15年8月11日時点  
◇交通JR宇和島駅より徒歩10分、タクシー3分
        バス5分:宇和島自動車丸ノ内バスセンター下車
◇開館時間午前9時〜午後4時まで
◇休館日無休
◇入場料大人 200円、小人 100円

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