伊予松山城(別名・金亀城) 【 平成12年(2000)版 】
―― 城郭建築史上、最末期の天守 ――
昭和48年(1973)、昭和62年(1987) ころの 伊予松山城へ

仕切門手前からの大天守 
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仕切門手前からの大天守
 
 
大天守最上階からの小天守と南隅櫓 
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大天守最上階からの
小天守と南隅櫓
 松山城の創設者である加藤嘉明は、元徳川譜代の武士であった広明を父にもち、6歳の時父が美濃国で逝去後、やがて羽柴秀吉に見出されてその家臣となり、20歳の時に賎ヶ岳の合戦において七本槍の一人として武勲をたてた。
 その後従五位下左馬介に補せられ、伊予国正木(伊予郡松前町)6万石の城主に任ぜられ、また文禄(1592)・慶長(1597)の役には九鬼・脇坂らの諸将とともに水軍を率いて活躍し、その功によって10万石に加増される。

 慶長五年(1600)関ヶ原の合戦においては徳川家康側に従軍し、その戦功を認められて20万石となった加藤嘉明は、慶長7年(1602)道後平野のほぼ中心に位置する勝山に城郭を築くため、普請奉行に足立重信を命じて地割りを行い、工事に着手した。
 翌8年(1603)10月に嘉明は居を新城下に移し、初めて松山という公称が公にされた。
 その後も工事は継続され、24年後寛永4年(1627)になってようやく完成をみた。

一の門南櫓前からの小天守と南隅櫓 
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一の門南櫓前からの
小天守と南隅櫓
 松山城は、海抜132mの勝山山頂部分に本丸を置き、中腹に二ノ丸、山麓に三ノ丸(城の内)を置き、北側に北の郭、東側に東の郭を設けた広大な規模を持ち、姫路城・和歌山城と並ぶ典型的な連立式平山城であった。
 本丸と二の丸の標高差は九十メートルあるが、この間にも山の稜線沿いに渡塀・石垣が構築されている。
 本丸の全長は三百メートルにも及び、地形をうまく利用して櫓・門を配置し、壮大な石垣を築いて防御を固めている。
 当時の天守閣は五層で偉観を誇った。
 しかし、嘉明は松山にあること25年、寛永4年(1627)に会津に転封される。

北隅櫓と十間廊下 
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北隅櫓と十間廊下
 
 
 
 加藤嘉明の会津転封後は、蒲生氏郷の孫忠知が出羽国(山形県)上の山城から入封し、二ノ丸の造築を完成させたが、寛永11年8月参勤交代の途中、在城7年目で京都で病没し、嗣子がないので断絶する。
 その後寛永12年(1635)7月伊勢国桑名城主松平定行が松山藩主15万石に封ぜられて以来、14代世襲して明治維新に至った。

南隅櫓と十間廊下 
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南隅櫓と十間廊下
 
 
 定行は寛永16年(1639)に幕府の許可を得て天守の改築にとりかかり、寛永19年に五層であったものを三層に変えた。
 しかし天明4年(1784)元旦に落雷にあい、天守をはじめそのまわりの建物すべてが焼失した。

 その後、藩の財政上の理由などによりなかなか再建されず、文政3年(1820)から再建工事に着手し、35年の歳月を経て十二代藩主定穀(のちの勝善)の代の安政元年(1854)にようやく天守等の建物が再建された。これが現在の天守閣である。したがって松山城天守は城郭建築史における最末期の建造物である。

 昭和に入り小天守やその他の櫓が放火や戦災などのために焼失しましたが、現在も天守は存在し、さらに、昭和41年から全国にも例を見ない総木造による復元が進められており、本丸一帯の小天守、太鼓櫓などの建物も復元され、本丸上の建造物は藩政時代の様相を再現している。

伊予松山城 案内図へ ) ( 伊予松山城 全景写真 へ
大天守最上階からの太鼓櫓、巽櫓方面 
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南隅櫓と十間廊下

● 築城工事の逸話
 築城に際し、まず本丸の位置が決定され、石塁の完成に全力が集中された。この時使用された石材は、付近の産地から産出したものも少なくなかったが、すでに廃城になっていた湯築城および正木城から運搬されたものも多かった。この運搬に際して次のような逸話がある。
 正木地域から魚類を行商する婦人を『おたた』と呼んだ。このおたたが、嘉明の命を受け小砂を入れた桶を頭に載せて正木から松山へ持ち込んだ。このために、その桶を御料櫃と称するようになり、また嘉明の夫人が握飯を配り人々の労をねぎらったという。
 その後、工事が進み瓦を山上に運ぶ頃、工事が渋滞したため、足立重信は近郷の農民を動員して三方から人垣を作らせ、手ぐり渡しにして一夜の間にその全部を運ばせ、嘉明を驚かせたと伝えられる。
伊予松山城全景(カタログから) 
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伊予松山城 全景(カタログから)

戸無門(裏側)と太鼓櫓 
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戸無門(裏側)と太鼓櫓
 
● 明治維新と松山城
 松山藩は松平家の入部により親藩大名となった。したがって幕末においては幕府側として「禁門の変」や「長州征伐」に参加したため明治維新では朝敵として追討を受けることになる。

 当時松山藩内においては、朝廷に罪を謝すべしとする恭順論者と、薩・長藩と徹底的に戦うべしとする主戦論者が対立したが、藩主松平定昭は恭順論を入れ、ここに松山藩は朝廷に対し王命に敵対する心底のないことを明らかにし、新政府側の土佐藩の兵を城下に入れ、藩主が常信寺において謹慎することとなった。

 これにより松山藩の誠意は新政府の認めるところとなり追討は免れる。
 このため松山城は戦火にさらされることなく、無事その姿をとどめた。

 その後、廃藩置県により松山城は兵部省の管轄となったが、城郭廃止の命により大蔵省の所管となり、やがて大正12年(1923)、旧藩主久松定謨氏より松山市に寄贈を受けたものである。
本丸井戸方面からの太鼓櫓 
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本丸井戸方面からの太鼓櫓
紫竹門(裏側)と天守群 
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竹門(裏側)と天守群

 最初に訪れた時は、初春で、リフトに乗り、非常に高い山城のイメージでした。
 2度目は、桜の花も満開で、優しく美しいお城でした。桜の花びらの舞う中の甘酒は風情があって美味しかった。
 3度目は、真夏で、ゆっくり廻ることができましたが、一ノ門他の改修工事で、天守閣外観は今ひとつでした。

 松山市内巡りには市内電車一日パス券(460円)は便利ですよ。
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 伊予松山城                                   平成12年8月9日現在  
◇交通・JR四国 予讃線 松山駅より
 ・市電大街道、又はバス一番町下車(所要約10分)、徒歩5分後、ロープウェイで3分
 ・市電市役所前又は県庁前下車(所要約10分)、徒歩10分で二ノ丸史跡庭園へ、
                     さらに、徒歩10分で松山城本丸へ
◇開館時間・午前9時〜午後5時まで
 ただし、12月・1月〜午後4時30分、8月〜午後5時30分
     (入城は各30分前まで)
◇休館日・12月29日
◇入場料・大人 350円、小人 120円
◇問い合せ・〒790-8571 松山市二番町4-7-2
 ・松山市観光課・松山市観光協会 TEL:089-948-6555〜8

 ・松山城管理事務所         TEL:089-921-2540
 ・JR松山駅観光案内所       TEL:089-931-3914
 ・道後観光案内所           TEL:089-921-3708

参考文献 ・現地解説板、現地入手のパンフレット
・《図説》日本の名城 (平井聖・小室榮一 編、河出書房新社 発行)
・《旅の本》日本名城の旅 上巻 (日本旅行作家協会 編、日地出版 発行)

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