尼崎城址(別名:琴浦、尼丘城)

―― 大坂の西を守る要(かなめ)の徳川譜代の城 ――
櫻井神社内にある尼崎市発祥の地の城址碑
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櫻井神社内の城址碑
 

尼崎駅側の城址公園入口からの模擬石垣と城壁
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尼崎駅側の城址公園入口からの
模擬石垣と城壁(北西面)

 
 
 
 室町幕府の時代に、尼崎を含む摂津地域を守護として支配したのは、赤松氏や細川氏といった幕府の有力な武家で、戦国時代には、尼崎城、富松城、塚口城といった城が、現尼崎市域に築かれました。

 自治都市であった尼崎は、この戦乱の時代にも、大名の武力に屈せず抵抗することがあり、このため、応仁元年(1467)には周防など4か国の守護であった大内政弘に、また永禄12年(1569)には天下統一を進める織田信長によって焼き討ちにあっています。

 近世に入ると、幕府の西国支配の最重要拠点である大坂の西に位置する尼崎の地は、軍事上、大坂の西を守る要(かなめ)の地として、幕府から重視されることになります。
 このため幕府は、大坂の陣ののち、元和3年(1617)に譜代大名の戸田氏鉄を尼崎に配置し、新たに四層の天守を持つ本格的な近世城郭を築城させました。
 築城工事は元和4年(1618)に開始され、数年後に完成したものと思われます。

 この尼崎城築城にともなって、城の建設地や中世以来の尼崎町にあった寺院が、城の西に集められて寺町となりました。
公園正面に復元された模擬石垣と城壁
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公園正面に復元された
模擬石垣と城壁(北西面)

 
図書館の壁となっている復元石垣(庄下川沿い)
図書館の壁となっている
復元石垣(庄下川沿い)

 
 寺町には今も11か寺が残っており、建物や収蔵品には文化財に指定されているものも多く、江戸時代以来の城下町の面影を現在に伝えています。

 寺町の南には武家屋敷町が配置され、また少し後には城の南の島に築地町が建設されて、近世城下町としての尼崎町ができあがっていきました。大坂から西国へと通じる中国街道が、城を南に迂回して城下町を通過していました。

 尼崎城を居城とした尼崎藩の藩主は、初代が戸田氏鉄、その跡を継いで寛永12年(1635)から青山氏、宝永8年(1711)以降は桜井松平氏と、いずれも徳川譜代の大名でした。
 その領地は、戸田氏・青山氏が5万石、松平氏が4万石で、現尼崎・伊丹市域から現神戸市域の須磨まで海岸地帯一帯に広がっており、尼崎城下町に加えて、高い経済力を有する兵庫津や西宮町が含まれていました。
 尼崎城を守備する藩にふさわしい、豊かな領地が与えられていたことがわかります。
城址公園入口方面(北方面)
城址公園入口方面(北方面)
城址公園・図書館南にある櫻井神社
城址公園・図書館南にある櫻井神社
 しかしながら、松平氏が藩主であった明和6年(1769)、兵庫津・西宮町を含む灘目の海岸地帯は幕府にとり上げられ、かわりに播磨国赤穂郡・宍粟郡・多可郡に飛地が与えられました。
 明治維新によって尼崎藩はなくなり、尼崎城も廃城となりました。

   (※ 尼崎市立地域研究史料館の「尼崎の歴史」ページから)


 城跡は、阪神電鉄「尼崎駅」の東隣の庄下川沿いの「城址公園」に石垣や城壁が復元されています。
 その南隣の図書館や桜井神社、明城小学校、成良中学校が城地だったようです。
 神社の北西隅に「尼崎市発祥之地尼崎城址」の石碑があります。

公園正面に復元された模擬石垣と城壁(北西面)
公園正面に復元された模擬石垣と城壁(北西面) (13kB)

 尼崎城址                                   平成21年8月13日時点  
◇所在地 ・兵庫県尼崎市北城内
◇交通 ・阪神電鉄本線・尼崎駅南口から、東に向かい、庄下川を越えてすぐ
◇駐車場 ・市立中央図書館の無料駐車場を利用
◇問い合わせ尼崎市立地域研究史料館  TEL:06-6482-5246

参考文献 ・尼崎市立地域研究史料館の「尼崎の歴史」のページ

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