水戸城跡(別名:馬場城)

―― 徳川御三家の一つ天下の副将軍で、東北諸大名の押さえとしての城 ――

二の丸跡からの水戸一高の正門となっている本丸枡形と土塁(東方面)
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二の丸跡からの水戸一高正門
本丸枡形と土塁(東方面)

 
本丸跡に移築復元された現存唯一の橋詰門
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本丸跡に移築復元された
現存唯一の橋詰門
 水戸城は、建久4年(1193)、源頼朝から地頭馬場資幹がこの地を賜り、常陸大掾に任ぜられ、東西に長い台地の東端に館を築いたのに始まる。
 以後、馬場大掾氏は九代約240年間、下の丸(現水戸一高運動場)の辺りに居館を構えた。

 次いで十五世紀のはじめ(応永年間)、那珂道辰の子孫河和田城主江戸通房が大掾満幹の留守に水戸城を占領、それ以来七代、165年間、江戸氏が支配した。
 当時は内城、その外に宿城(現水戸三高、水戸二中、茨城大学付属小)と浄光寺の三つの曲輪よりなっていた。

 天正18年(1590)太田城を本拠地として常陸北半を領していた佐竹義宣は、秀吉の小田原城攻めに功績を認められると一気に江戸氏を攻め、水戸城を占拠した。
 こうして五十四万余石を領する佐竹義宣の本拠城となり、一段低い丘の東端を下之丸、その上の段丘の内城を古実城と称して本丸化し、堀を越えて宿城を二の丸、その西側に三の丸の曲輪を造るなど城郭の整備を進めた。
旧弘道館前からの二の丸への大手橋(東方面)
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旧弘道館前からの二の丸への
大手橋(東方面)
大手橋からの二の丸枡形と土塁(東方面)
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大手橋からの
二の丸枡形と土塁(東方面)
 城の出入口も東側から西側に移し、橋詰門を建て、また二の丸に大手門などを造り、城下町も太田から移された商人によって栄えた。
 ところが秀吉の死後、義宣は石田三成と結んで徳川家康に抗して、関ヶ原合戦に際し、家康方に参陣しなかったため、慶長7年(1602)突然秋田へ国替えを命ぜられ、僅か十三年間で水戸を去った。

 その後豊臣氏没落後、東北諸大名の押さえとして水戸を重視した徳川家康は、まず五男の甲府・武田信吉を、次いで十男の徳川頼宣が封ぜられたが、慶長14年(1609)に第十一子頼房が藩主(二十五万石、第三代綱條の時から三十五万石)となり、その後、徳川氏は江戸定府ながら、光圀(第二代)、斉昭(第九代)、昭武(第十一代)まで約260年間、水戸領を治めたが、その間水戸徳川家は、徳川御三家として幕府を助け、第二代光圀以来尊王の学風を興して天下の大勢を導き、明治維新の源流を開いたのである。

銀杏坂から上がって正面の三の丸小学校の冠木門(北方面)
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銀杏坂から上がって正面の
三の丸小学校の冠木門(北方面)
早朝の本瓦葺き四脚門の正門(表側)
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早朝の本瓦葺き四脚門の正門
(表側)
 頼房は、寛永2年(1625)頃から水戸城の大修築を行い、城郭としての構造は、佐竹氏の時代とほぼ同じで、東から下之丸、本丸、二の丸、三の丸がおかれ、水戸城の中心は二の丸で居館を築いた。
 また、三の丸は、北・中・南の三地区に分かれ、重臣屋敷が甍を並べていたが、九代藩主斉昭が天保12年(1841)に中三の丸の地に藩校弘道館を建設したことから、文教学問の中心地区が形成された。

 明治4年(1871)廃城、徳川期の本丸には兵器庫、二の丸には三階櫓があった。
 現在、水戸城跡の史跡指定区域は、本丸枡形及び土塁(水戸一高)、二の丸大手門枡形及び土塁(茨大付属小、水戸二中)、県三の丸庁舎正門の土塁・空堀の三か所となっており、本丸には旧水戸城の現存するただ一つの建造物で、永らく城外に移されていた本丸の表門と考えられる橋詰門が移築・復元されて、城址の名残りをとどめている。

県三の丸庁舎前の土橋からの中堤と中空堀(南方面)
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県三の丸庁舎前の土橋からの
中堤と中空堀(南方面)
県立図書館と県三の丸庁舎の間の広場(旧弘道館、東方面)
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県立図書館と県三の丸庁舎の間の
広場(旧弘道館、東方面)
 何処の城跡とも同じように、本丸、二の丸跡には、いくつもの学校が建ち、三の丸にも小学校や図書館、県庁舎などの公共の建物が建っています。
 しかし、水郡線の線路や道路が通る本丸、二の丸の深く掘られた空堀は凄いです。
 また、石垣などはありませんが、三の丸西側の深い空堀と堤は、台地を掘削して作られたもので南・中・北に2つの土橋によって分けられ、よく残っていて見ものです。

 その三の丸中央にある旧弘道館ですが、全国一の規模を誇った敷地内には、創建当時、現存の本館を正面に、東側に文館、西側に武館・天文台・医学館があり、北側には馬場を挟んで、現在県三の丸庁舎の建つ調練場などがあったそうです。

[ 旧弘道館の本館正面玄関内右側に掛っていた鳥瞰図 (87kB) ]

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本丸(一郭)
 この一郭は鎌倉時代に馬場氏が館を建ててから、江戸氏・佐竹氏と城主が代わっても、本城(本丸)であった。
 しかし徳川氏は居館を二の丸に建て、この郭は武器貯蔵所とした。
 城門は東に 寺門、中部に中門があったが、現在残る唯一の門は橋のたもとにあった橋詰門のみである。
 
水郡線を跨ぐ橋からの本丸跡枡形内の水戸一高校門(東方面)
クリックで拡大図(61kB)にいきます。 本丸跡説明板のある本丸枡形の土塁(左・北側)
水郡線を跨ぐ橋からの本丸跡
枡形内の水戸一高校門(東方面)
本丸跡説明板のある本丸枡形の土塁(左・北側)
 
本丸跡内部からの枡形南側の土塁(西方面) 本丸跡内からの枡形内部の土塁(西北方面)
本丸跡内部からの枡形南側の土塁(西方面)
 
本丸跡内からの
枡形内部の土塁(西北方面)
本丸跡に移築復元された薬医門の橋詰門(表側)
クリックで拡大図(50kB)にいきます。 本丸跡に移築復元された薬医門の橋詰門(内側)
クリックで拡大図(55kB)にいきます。 本丸と二の丸の間の空堀を通る水郡線の線路
本丸跡に移築復元された
薬医門の橋詰門(表側)
本丸跡に移築復元された
薬医門の橋詰門(内側)
本丸と二の丸の間の空堀を
通る水郡線の線路
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二の丸
 二の丸跡の遺構としては、大手門枡形及び土塁(茨大付属小、水戸二中の西・三の丸側)が残るのみです。
 大手橋は、佐竹氏の城郭拡張によって二の丸・三の丸が築かれた時、慶長元年(1596)に間の空堀に掛けられた橋で、徳川初代藩主頼房が修築してから「大手橋」と称された。
 大手橋に接してあった二階造りの大手門は、佐竹義宣が慶長6年(1601)に建てたものであったが、徳川氏の代になっても水戸城の入口の門で、前に下乗の札、後ろに番所があった。楼上では太鼓、または鐘を打って知らせたこともあったが、明治初年に取り壊された。
 
現地説明板にあった大手橋古写真 現地説明板にあった大手門古写真 現地説明板にあった三階櫓古写真
現地説明板にあった
大手橋古写真
現地説明板にあった
大手門古写真
現地説明板にあった
三階櫓古写真
旧弘道館前からの二の丸への大手橋(東方面) 二の丸への大手橋
クリックで拡大図(76kB)にいきます。 枡形正面土塁前にある城跡説明板
旧弘道館前からの二の丸への大手橋(東方面) 枡形正面土塁前の城跡説明板
大手橋からの二の丸枡形と土塁(東方面)
大手橋からの二の丸枡形と土塁(東方面)
県道232号線が通る左三の丸、右二の丸の間の空堀跡(北方面) 大手橋の上から見る空堀跡を通る県道232号線(南方面)
県道232号線が通る
左三の丸、右二の丸の間の空堀跡(北方面)
大手橋の上から見る空堀跡
を通る県道232号線(南方面)
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三の丸
 三の丸は、北・中・南の三地区に分かれ、重臣屋敷が甍を並べていたが、九代藩主斉昭が天保12年(1841)に中三の丸の地に藩校弘道館を建設したことから、文教学問の中心地区が形成された。
 三の丸西側の空堀跡は、台地を掘削して造成された水戸城外堀で、城内と町屋地区とを区画する需要な役割を持っており、古地図を見ると空堀であったことがわかる。
 
三の丸小学校正門前の通り(西方面) 三の丸小学校正門の冠木門(南面)
クリックで拡大図(62kB)にいきます。 三の丸小学校東側出入口の冠木門(東面)
三の丸小学校正門前の
通り(西方面)
三の丸小学校正門の
冠木門(南面)
三の丸小学校東側出入口の
冠木門(東面)
三の丸西側の南堀と土橋(北方面) 水戸警察署裏駐車場からの南堤の土塁(北方面)
三の丸西側の南堀と土橋(北方面)
 
水戸警察署裏駐車場からの
南堤の土塁(北方面)
県立図書館前の土橋からの中堀(北方面) 県立図書館前の中堀側の土塁
県立図書館前の土橋からの中堀(北方面) 県立図書館前の中堀側の土塁
県三の丸庁舎前の土橋からの中堤と中堀(南東方面) 中堤と中堀
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県三の丸庁舎前の土橋からの中堤と中堀(南東方面)
県三の丸庁舎前の土橋からの北堤と北堀(北方面) 北堤と北堀
クリックで拡大図(85kB)にいきます。 三の丸広場からの北堤の土塁(北西方面)
県三の丸庁舎前の土橋からの北堤と北堀(北方面)
 
三の丸広場からの
北堤の土塁(北西方面)
鹿島神社への土橋からの三の丸北西側の空堀(西方面) 三の丸北東側空堀からの北側土塁と土橋(西方面)
クリックで拡大図(75kB)にいきます。 鹿島神社への土橋からの三の丸北東側の空堀(東方面)
鹿島神社への土橋からの
三の丸北西側の空堀(西方面)
三の丸北東側空堀からの
北側土塁と土橋(西方面)
鹿島神社への土橋からの
三の丸北東側の空堀(東方面)
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特別史跡 旧弘道館
 弘道館は、水戸第9代藩主徳川斉昭(烈公)が天保12年(1841)この地に藩校を創立し、水戸藩士の子弟に文武の教育をしたところです。
 その主義・精神は日本古来の倫理道を基本とし、これに中国に発した儒教の道徳を採用したもので、世に水戸学と称せられた。
 現存している正庁の建物は669平米(202坪)、敷地34,167平米(10,353坪)で、明治8年に公園として国から指定を受け、昭和23年に都市計画公園に指定されて以来、弘道館公園を称するに至った。
 昭和27年3月に国の特別史跡、さらに昭和39年5月に正庁、至善堂、正門が国の重要文化財に指定された。

[ 創建当時の旧弘道館敷地見取り図 (119kB) ]

[ 現存している旧弘道館正庁の建物平面図 (125kB) ]

大手橋前からの旧弘道館正面(西方面) 旧弘道館正門(表側)
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大手橋前からの旧弘道館正面(西方面)(25kB)
旧弘道館正面入口からの正門と白壁塀、入館路側の薬医門(東面) 正面入口からの正門
クリックで拡大図(75kB)にいきます。 入館路側の薬医門
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旧弘道館正面入口からの正門と白壁塀、入館路側の薬医門(東面)(25kB)
道路沿いの白壁塀と正面入口(北東方面) 早朝の閉門している入館路側の薬医門(西面) 早朝の閉門中の薬医門
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道路沿いの白壁塀と
正面入口(北東方面)
早朝の閉門している入館路側の薬医門(西面)
 
入館路側の薬医門(内側)と史跡碑(南東面)
クリックで拡大図(60kB)にいきます。 白壁塀に埋め込まれている正庁への入館門(南東面)
クリックで拡大図(72kB)にいきます。 入館券販売所や奥にトイレのある詰所
入館路側の薬医門(内側)と
史跡碑(南東面)
白壁塀に埋め込まれている
正庁への入館門(南東面)
入館門右側にある
入館券販売所の詰所
正庁二の間・三の間のある建物(南端角部分)
クリックで拡大図(70kB)にいきます。 入館門前からの正庁玄関、出入口のある廊下と資料室建物(南東面) 正庁玄関、出入口のある廊下
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正庁二の間・三の間のある
建物(南端角部分)
入館門前からの正庁玄関、出入口のある廊下と資料室建物(南東面)
 
正門前からの玄関(南東面)
クリックで拡大図(91kB)にいきます。 玄関にある徳川斉昭公と七郎麻呂(慶喜公)の像 玄関式台からの正門(内側)
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正門前からの玄関(南東面)
 
玄関にある徳川斉昭公と
七郎麻呂(慶喜公)の像
玄関式台からの正門(内側)
 
入ってすぐの溜からの大番組詰所内部(北西方面) 正庁諸役会所の床の間に掛る松延年筆「尊攘」 正庁三の間前からの諸役会所と玄関の間の廊下
入ってすぐの溜からの
大番組詰所内部(北西方面)
正庁諸役会所の床の間に掛る
松延年筆「尊攘」
>正庁三の間前からの
諸役会所と玄関の間の廊下
二の間からの正庁正席の間(北西方面)
クリックで拡大図(38kB)にいきます。 正庁正席の間と二の間(東方面) 正庁二の間からの三の間、諸役会所の間(北東方面)
二の間からの
正庁正席の間(北西方面)
正庁正席の間と二の間
(東方面)
正庁二の間からの三の間、
諸役会所の間(北東方面)
復元された厠内部 復元された湯殿内部 正庁と至善堂をつなぐ十間畳廊下(北東方面)
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復元された厠内部
 
復元された湯殿内部
 
正庁と至善堂をつなぐ
十間畳廊下(北東方面)
至善堂への西側入側の畳廊下(北西方面) 十間畳廊下からの至善堂三の間、二の間、御座の間
クリックで拡大図(47kB)にいきます。 至善堂御座の間からの二の間、三の間(南東方面)
至善堂への西側入側の畳廊下
(北西方面)
十間畳廊下からの至善堂
三の間、二の間、御座の間
至善堂御座の間からの
二の間、三の間(南東方面
至善堂御座の間東側入側からの四の間と板廊下(北端角) 至善堂四の間東側に展示の雲龍水(昔の消火ポンプ) 至善堂溜の間からの十間畳廊下(南西方面)
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至善堂御座の間東側入側からの
四の間と板廊下(北端角)
至善堂四の間東側に展示の
雲龍水(昔の消火ポンプ)
至善堂溜の間からの
十間畳廊下(南西方面)
至善堂四の間の慶喜ゆかりの長持と三の間や十間畳廊下の農人形(南方面) 番頭詰所からの十間畳廊下外側(北方面)
至善堂四の間の慶喜ゆかりの長持と三の間や
十間畳廊下の農人形(南方面)
番頭詰所からの
十間畳廊下外側(北方面)
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弘道館公園
 公園内には、旧弘道館の建物のほかに、鹿島神社、孔子廟、八卦堂、要石歌碑、種梅記碑、学生警鐘などの史跡がある。
[ 現地の弘道館公園内案内図 (62kB) ]
孔子廟の正門(戟門)
クリックで拡大図(80kB)にいきます。 烈公自鋳といわれる学生警鐘
クリックで拡大図(74kB)にいきます。 烈公選定の記碑が治められている八卦堂(北面)
クリックで拡大図(82kB)にいきます。
孔子廟の正門(戟門)
徳川斉昭(烈公)自鋳といわれる
学生警鐘
烈公選定の記碑が
治められている八卦堂(北面)
弘道館鹿島神社の本殿(北面)
クリックで拡大図(79kB)にいきます。 神社手水社横の江戸時代の井戸 八卦堂の上欄に取り付けられている三本の算木
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弘道館鹿島神社の本殿
(北面)
神社手水社横の
江戸時代の井戸
八卦堂の上欄に
取り付けられている三本の算木
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史跡・名勝「常磐公園」偕楽園と千波湖)
 天保4年(1833)、徳川斉昭が藩内を巡った時、南に千波湖や緑が岡をのぞみ、筑波山や大洗の海を遠望できる高台を藩内随一の景勝地として遊園を設けることを決め、自ら造園構想を練りました。
 天保12年から造園工事を行い、翌13年(1842)7月に開園しました。
 
公園北側入口にある好文亭の表門(北西面)
クリックで拡大図(93kB)にいきます。 キリシマツツジ越しの好文亭(東面)
クリックで拡大図(158kB)にいきます。 仙奕台からの千波湖(南東方面)
クリックで拡大図(63kB)にいきます。
公園北側入口にある
好文亭の表門(北西面)
キリシマツツジ越しの
好文亭(東面)
仙奕台からの千波湖
(南東方面)
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 旧弘道館(三の丸)                               平成22年5月14日時点  
◇所在地 ・茨城県水戸市三の丸1丁目6番29号
◇交通 ・JR常磐線・水戸駅北口より、国道61号線を渡り、銀杏坂を上がり、
   三の丸小学校正門を右にまわりすぐ、徒歩約8分
◇駐車場 ・旧弘道館の無料駐車場か、図書館or県庁舎の有料駐車場(300円/1時間)を利用
◇観覧時間・午前9時〜午後5時(2/20〜9/30)
・午前9時〜午後4時30分(10/1〜2/19)
◇休館日・12/29〜12/31
◇観覧料・大人:190円、 ・小中学生:100円、
・70歳以上、障害者手帳所有者:無料
◇問い合わせ ・茨城県 水戸土木事務所 偕楽園公園課
   ・弘道館事務所        TEL:029-231-4725
   ・偕楽園公園センター    TEL:029-244-5454
・一般社団法人 水戸観光協会 TEL:029-244-0441

参考文献 ・現地で入手のパンフレット、及び、解説板

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