平山城址
白壁塀と説明板のある城址公園北中央口
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白壁塀と説明板のある
城址公園北中央口
見張台のあった丘の上に建つ季重神社(北方面)
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見張台のあった丘の上に建つ
季重神社(北方面)

 この地は、遠く寿永の昔、今より七百七十余年前(1184年頃)、源平一の谷合戦で熊谷直実と武勇を競った源平方の侍大将平山武者所季重の居住地で、居館の址はこの下の市立図書館付近にあります。

 左方に突出した丘は丸山と呼び、季重居住の頃は見張所の置かれた処で、勇士の名に因んでこの苑地を平山城址公園と名付けました。

※ 宗印寺にある平山季重の墓
 平山季重は平安末期、鎌倉初期の東国武士の典型である。
 平山氏は、武蔵七党の中の一つ西党に属し、宗家日奉氏の分派になる。
 秋川流域を中心として後代この地を支配した小宮氏は、平山氏の同族で、政権の移転によって改姓したものではないかという説もある。
城址公園東下側にある猿渡の池(上流・西方面)
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城址公園東下側にある
猿渡の池(上流・西方面)
城址公園東下側にある草広場(西方面)
城址公園東下側にある
草広場(西方面)

 建保元年(1213)五月の和田の乱で横山党は滅亡したが、同族の平山氏はこの乱に加担しなかったと思われる。
 季重は、一の谷合戦に際し、熊谷直実、直家父子とともに勇名をはせたことが活写されているように、豪放大胆な関東武士の面影をあますところなく発揮し、さきの保元、平治の乱にも活躍した人物である。

 五輪塔の高さは1.7m、旧平山小学校内にあったが、大福寺が明治6年(1873)に廃寺になったので現在地に移された。
 この墓は、季重二十五代の孫松本藩の平山季長が追悼のために建立したものである。

[ 平山城址公園内の案内図 (43kB) ]
宗印寺の山門(薬医門)
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宗印寺の山門(薬医門)
 
宗印寺にある平山季重の墓(五輪塔)
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宗印寺にある
平山季重の墓(五輪塔)

 京王平山城址公園駅から案内(道しるべ)にしたがって城跡に向ったのですが、平山緑地への曲がり角を間違えて、そのまま南下したため、どん詰まりの先には、U字の崖に囲まれてしまいました。
 そこから急峻な土手道を上がると、台地先端部にある季重神社に出ます。

 さらに進むと「都立平山城址公園」といわれ、入口を白壁塀で飾っている公園入口すぐ上の土塁(尾根道)に出ます。
 城址といっていますが、元々は砦のようなものがあっただけのようです。
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季重神社の東側下道もなくなった行き止まり
季重神社の東側下
道もなくなった行き止まり
公園北中央口近くからの季重神社への尾根道
公園北中央口近くからの
季重神社への尾根道
公園北中央口近くの土塁(西方面)
公園北中央口近くの土塁
(西方面)
野猿の尾根道の土塁(南西方面)
野猿の尾根道の土塁(南西方面)
宗印寺の山門(薬医門)の内側
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宗印寺薬医門の内側
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 都立平山城址公園                           平成22年4月18日時点  
◇所在地 ・東京都日野市平山字堀之内
◇交通 ・京王線 平山城址公園駅から真っすぐ南に向かい、北野街道を横切って、
   所々にある道しるべに従い、平山緑地、京王平山住宅街を通って、
   都水道局平山配水所横の階段を登り、右に進む(徒歩約20分)
 ※ 駅前に城址公園への案内板(道しるべ)あり
◇駐車場 ・平山城址公園北中央口に数台の駐車場スペースあり
◇問い合わせ日野市観光協会   TEL:042-586-8808

参考文献 ・現地の解説板

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