祇園城跡(別名:小山城)

祇園城跡(城山公園)への南側入口
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祇園城跡(城山公園)への
南側入口(北西方面)
本丸曲輪と中間の曲輪との間の深さ6m、幅10mもある空堀
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本丸曲輪と中間の曲輪との間の
深さ6m、幅10mもある空堀
 小山氏は、天慶3年(940)に平将門の乱を鎮圧した藤原秀郷の子孫で、12世紀中頃に、政光を初代として成立しました。
 政光の妻が源頼朝の乳母だったこともあり、頼朝に味方し、鎌倉幕府の成立に大きな力となり、幕府の御家人として東日本屈指の勢力を誇っていました。

 14世紀後半の小山義政・若犬丸の乱で、下野守護であった義政は鷲城や祇園城などを本拠に鎌倉府軍と戦いましたが、これを境に小山氏の勢力は著しく衰退していきました。
 祇園城は、西に思川をひかえた丘陵を利用して築かれ、築城されたころは現在の城山公園程度の規模と思われ、小山氏の本拠となったのは15世紀になってからのことでしょう。
 名称は、城内に城守りの神として祇園牛頭天王社(現在の須賀神社)を祭ったことに由来するといわれています。

馬出し曲輪北側の深さ6m、幅9m程もある空堀と石橋(西方面)
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馬出し曲輪北側の深さ6m、
幅9m程もある空堀と石橋(西方面)

 
 
北側の東西の曲輪の間に架かる人道橋下の空堀(北方面)
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北側の東西の曲輪の間に架かる
人道橋下の空堀(北方面)

 
 戦国の動乱にさいして、小山は北関東の要衝であることから、越後の上杉氏や小田原の北条氏といった有力な戦国大名に攻略され、天正3年(1575)北条氏照によって祇園城は陥落、小山秀綱は追放されました。
 その後氏照が大規模に拡張・整備を行ったと思われます。

 やがて北条氏も滅亡し、江戸幕府成立後、徳川譜代の本多正純が三万石余で城主となり、最終的な縄張りを完成させ、東西約400m、南北約700mにおよぶ城郭となりました。
 この正純も元和5年(1619)宇都宮に転封となり、祇園城は廃城となりました。

[ 祇園城(小山城)縄張り図 (56kB) ]

 大きな空堀で分断して、数多くの曲輪の跡が、今も思川沿いに整備され、残っています。
 その南側には、道路を挟んで、思川に向って、高い石垣を持つ小山御殿跡が、現在発掘調査中でした。
祇園城跡(別名:小山城)
城山公園を入ってすぐの本丸曲輪南西部にある公園石碑 本丸曲輪の南西部 本丸曲輪の中心部(北方面)
城山公園を入ってすぐの
本丸曲輪南西部にある公園石碑
本丸曲輪の南西部
 
本丸曲輪の中心部
(北方面)
本丸曲輪北東側の土塁(東方面)
クリックで拡大図(74kB)にいきます。 本丸曲輪の北東部(南東方面) 本丸曲輪東北側の土塁(北東方面)
本丸曲輪北東側の土塁
(東方面)
本丸曲輪の北東部
(南東方面)
本丸曲輪東北側の土塁
(北東方面)
本丸曲輪から中間の曲輪に架かる赤い祇園橋(北方面) 祇園橋からの本丸曲輪西側馬出し曲輪(北西方面) 中間の曲輪北東部からの馬出し曲輪と空堀(南西方面)
本丸曲輪から中間の曲輪に
架かる赤い祇園橋(北方面)
祇園橋からの本丸曲輪西側
馬出し曲輪(北西方面)
中間の曲輪北東部からの
馬出し曲輪と空堀(南西方面)
中間の曲輪西側から架かる石橋からの馬出し曲輪(南方面) 中間の曲輪西側から馬出し曲輪に架かる石橋(南方面)
中間の曲輪西側から架かる石橋からの馬出し曲輪(南方面) (17kB)
 
中間の曲輪西側から馬出し曲輪に
架かる石橋(南方面)
馬出し曲輪に架かる石橋からの北側の空堀(東方面) 馬出し曲輪と中間の曲輪の間の深さ6m、幅9m程もある東側の空堀(北方面)
馬出し曲輪に架かる石橋からの
北側の空堀(東方面)
馬出し曲輪と中間の曲輪の間の深さ6m、幅9m程もある
東側の空堀(北方面) (20kB)
中間の曲輪の北側の土塁(東方面) 中間の曲輪と北側の曲輪の間の深い空堀跡(東方面) 中間の曲輪と北側の曲輪の間の深い空堀跡(西方面)
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中間の曲輪の北側の土塁
(東方面)
中間の曲輪と北側の曲輪の間の
空堀跡(東方面)
中間の曲輪と北側の曲輪の間の
深い空堀跡(西方面)
北側の曲輪の中間の空堀からの北西側曲輪への登り道(北西方面)
クリックで拡大図(92kB)にいきます。 北西側曲輪の櫓台跡?からの曲輪下側の土塁(南方面) 北西側曲輪の櫓台跡?下からの曲輪下側の土塁(南西方面)
北側の曲輪の中間の空堀からの
北西側曲輪への登り道(北西方面)
北西側曲輪の櫓台跡?からの
曲輪下側の土塁(南方面)
北西側曲輪の櫓台跡?下からの
曲輪下側の土塁(南西方面)
北西側曲輪の櫓台跡?のような北東部の土塁 北西側曲輪中間から北東側曲輪への鉄の橋(東方面)
北西側曲輪の櫓台跡?のような北東部の土塁 (19kB)
 
北西側曲輪から北東側曲輪への
鉄の橋(東方面)
駐車場となっている北東側曲輪跡(南東方面) 北側の東西の曲輪の間の空堀(北方面) 北側の東西の曲輪の間の空堀(南方面)
駐車場となっている
北東側曲輪跡(南東方面)
北側の東西の曲輪の間の
空堀(北方面)
北側の東西の曲輪の間の
空堀(南方面)
北西側曲輪と天翁院の間の空堀(西・思川方面) 昔は沼田か水堀だったと思われる北東側曲輪と天翁院の間の空堀(西方面)
 
北西側曲輪と天翁院の間の空堀(西・思川方面) (19kB) 昔は沼田か水堀だったと思われる
北東側曲輪の北側空堀(西方面)
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小山御殿跡
 廃城後、その一画には、徳川将軍家の日光社参の際の休憩・宿泊所として「小山御殿」が造営されました。
 城内の南の領域は、慶長5年(1600)7月25日にいわゆる「小山評定」が開かれた地と考えられています。
 小山御殿はかなり厳重な配置になっていたようで、周囲に堀が廻り、土塁が二重に築かれ、敷地内には16ヶ所に御番所が設けられていました。

 将軍家の日光社参は寛文3年(1633)に四代将軍家綱がおこなって以降、八代将軍吉宗が享保13年(1728)に再開するまで財政難のため中絶します。
 この間、大風によって建物の一部が壊れてしまったこともあり、小山御殿は天和2年(1682)、古河藩によって解体されてしまいました。
[ 小山御殿の配置図 (41kB) ]

道路側入口そばからの思川側の御殿跡(西方面) 御殿跡思川側上段内部(南・文化センター方面) 御殿跡思川側上段西端からの出曲輪?城塁(南東面)
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道路側入口そばからの
思川側の御殿跡(西方面)
御殿跡思川側上段内部
(南・文化センター方面)
御殿跡思川側上段西端からの
出曲輪?城塁(南東面)
御殿跡西端からの思川河岸(西方面) 御殿跡思川側上段西端から出曲輪?への通路(北西方面)
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御殿跡西端からの思川河岸(西方面) (12kB)
 
御殿跡思川側上段西端から
出曲輪?への通路(北西方面)
御殿跡北西端の出曲輪?内部(北方面)
御殿跡北西端の出曲輪?内部(北方面) (36kB)
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曲輪跡
 JR東北本線東側線路脇の空き地そばに残土を持ったような土塁が「曲輪跡」です。
 元々は小山氏初期の居館跡だったらしいです。
 
JR東北本線踏切からの線路脇の曲輪跡の土塁(南東方面)
クリックで拡大図(73kB)にいきます。 道路そばに立つ曲輪跡碑と土塁
クリックで拡大図(103kB)にいきます。 曲輪跡の土塁(南端部)
踏切からの線路脇の
曲輪跡の土塁(南東方面)
道路そばに立つ
曲輪跡碑と土塁
曲輪跡の土塁(南端部)
 
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 祇園城跡                                 平成22年2月6日時点  
◇所在地 ・栃木県小山市本郷
◇交通 ・JR東北本線 小山駅西口より思川に向って、約750mで城山公園南口へ
   〜(徒歩約10分)
◇駐車場 ・天翁院手前の本郷信号を左に入った北東側曲輪跡の駐車場を利用
◇問い合わせ小山市役所ホームページ へ TEL:0285-23-1111(代)
小山市観光協会        TEL:0285-22-9273

参考文献 ・現地で入手のパンフレット、及び、解説板

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