龍門寺城跡

―― 前田利家が、賎ヶ岳戦いに敗れた柴田勝家を迎えた城 ――

龍門寺の東側正面の山門(薬医門)
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龍門寺東側正面の山門(薬医門)
山門横にある城跡碑
山門横にある城跡碑

 龍門寺は正安元年(1299)に悦巌崇禅(えつがんすうぜん)によって創建されたと伝えられている。
 龍門寺城は府中の南寄りに築かれた平城で、越前制圧の要衝として軍事上重視されていました。
 天正元年(1573)8月の織田信長による朝倉義景討伐に際しては、北近江から敦賀、府中を経て一乗谷へ敗走する義景を追って、信長はここに陣を移して軍勢を指揮しました。

 朝倉氏滅亡後、同2年には越前の門徒領国化をねらう一向一揆勢によって支配され、この討伐のために、同3年信長は羽柴秀吉・明智光秀らに龍門寺城に攻め入らせ、再び龍門寺に城に入っている。
龍門寺正面の山門(内側)
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龍門寺正面の山門(内側)
 
境内の南側に残る堀跡の墓地と台地上の土塁(東方面)
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境内の南側に残る堀跡の墓地と
台地上の土塁(東方面)

 その後、一向一揆を壊滅させて越前の再制圧を果たした信長は、府中とその近辺の十万石を府中三人衆(不破光治・前田利家・佐々成政)に支配させ、龍門寺城には不破光治が入った。

 天正13年(1585)に、若狭の木村常陸介(ひたちのすけ)が府中を支配し、若狭から高僧を招いて城内の南隅に龍門寺を再興した。
 現在、南部の堀跡は墓地となっている。
 また、本堂や庫裡は台地上にあって、平城の名残りがある。

 正徳元年(1711)の「府中御城下絵図」(経王寺蔵)には、龍門寺をはじめ正願寺・陽願寺・蓮尚寺・超恩寺・大宝寺・妙高寺の寺院群が集中する区域を取り囲むように水路が描かれています。
龍門寺の見取り図
龍門寺の見取り図(上:西方面)
足軽の人数を数えたと言われる「卍が辻」
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足軽の人数を数えたと
言われる「卍が辻」
 この水路は堀の名残であった可能性が高く、かつての龍門寺城はこれらの敷地を含んだ大規模な城郭だったと考えられています。
 江戸時代には門前より北部一帯を「古城」、さらに南部を「下の濠(ほり)」と呼んでいました。
 現在、龍門寺境内の南側に残る堀跡は墓地に利用されていますが、起伏に富んだ地形から堀の深さや幅が実感できます。

 城跡というよりは、織田信長の武将富田長将による朝倉攻め、一向一揆征伐時に陣地として使われたのが始まりだそうです。
 この城は、天正11年(1583)、前田利家が、賎ヶ岳の戦いで敗れた柴田勝家を迎えた城で有名です。


   龍門寺城跡                                  平成22年8月15日時点  
◇所在地 ・福井県越前市本町
◇交通 ・JR北陸本線 武生駅正面の市役所前通りを350m程西進し、左折して蓬莱交差点に
   向かい(約180m)、国道365号線(北陸道)を南下(約350m)、右の路地にはいり直進50m
◇問い合わせ ・観光・匠の技案内所  TEL:0778-24-0655
 ※ JR武生駅前武生パレスホテル1F
   【開館時間】午前9時〜午後6時 年中無休(ただし、12月30日〜1月2日は休業)
・越前市観光振興課   TEL:0778-21-3307
・龍門寺          TEL:0778-22-2215

参考文献 ・現地の「越前市教育委員会」の解説板
越前市のホームページ

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