福井城(別名・北の庄、福居城)

―― 御家門松平家の大城 ――

中央公園(西方面)からの御廊下橋と天守台方面石垣
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中央公園(西方面)からの
御廊下橋と天守台方面石垣
御本城橋からの本丸堀と石垣(東方面)
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御本城橋からの
本丸堀と石垣(東方面)
 織田信長による越前一向一揆の平定後、天正3年(1575)柴田勝家が足羽川のほとりに北の庄城を築いたのが前身である。
 北の庄城の詳細は不明であるが、現在の柴田神社が鎮座する場所が本丸とされている。

 慶長5年(1600)徳川家康の次男結城秀康が松平姓に復して六十七万石として福井藩主に封ぜられる。翌6年、秀康は北の庄城を改修・整備しながら新たに築城の工を起こした。御家門の居城にふさわしい築城の開始である。

 本丸と二の丸の縄張りは家康自らが構成したと伝えられ、全国諸大名の御手伝普請で、大修築工事が行われた。本丸石垣は地元算出の笏谷石(しゃくたにいし:凝灰岩)一種類だけを用い、布積み工法による極めて精巧な石組である。多くの大名が普請に参加したことから、多様な刻印(石に彫られた符号)が残り興味深い。

北側方面からの本丸堀と石垣
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北側方面からの
本丸堀と石垣
御廊下橋側の本丸内石垣
御廊下橋側の本丸内石垣
 中核となる本丸・二の丸・三の丸の周囲には、さらに二重の外郭を回し、水堀が幾重にも巡らされた五重の曲輪からなる環郭式の大城で、総高37mの四重五階の大天守が聳えた。工事は六年の歳月を要し、慶長11年(1606)にほぼ完成している。

 その後寛永元年(1624)、二代目忠直の時改易になり、弟の松平忠昌が三代藩主として越後国高田から北の庄城に入城すると、従来の北の庄の「北」には逃げれう、敗れるの意があって部門には不吉であることから「福居」と改称した。現在の「福井」と書かれるようになるのは元禄年間以後のことである。

 福井はしばしば大火に見舞われ、寛文9年(1669)に焼失、以後再建されることなく三重の隅櫓が代用された。

 城は松平氏十七代の居城だったが、明治4年に城内の建物(櫓や塀)は破却され、現在ではわずかに本丸と天守台を遺すのみである。
天守台への石段
天守台への石段
天守台にある福ノ井の井戸
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天守台にある福ノ井の井戸
 その残った遺構も昭和23年(1948)の福井地震で一部崩れたが、同58年(1983)修復された。

 記念すべきプレ100城記念の場所が以外と故郷近くの福井城とは不思議なものですね。
 天守台を見学する私を福井県庁のロビーの中からガラス越しにたくさんの人が見ているのが少し恥ずかしい気もしました。
天守台の上部
天守台の上部


 福井城跡                            平成17年4月10日時点  
◇交通 JR北陸本線福井駅から、北西へ徒歩約5分
◇問い合わせ福井市観光課     TEL:0776-20-5346

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